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逸ノ城駿

逸ノ城駿

モンゴル出身の日本の大相撲力士 (1993-)

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要点まとめ

  • 逸ノ城 駿 (いちのじょう たかし、1993年4月7日 - )は、モンゴル国アルハンガイ県 バットツェンゲル村 出身で、湊部屋に所属した元大相撲力士。
  • 帰化前は アルタンホヤグ・イチンノロブ (モンゴル語キリル文字表記: Алтанхуягийн Ичинноров 、ラテン文字転写: Altankhuyagiin Ichinnorow )。
  • 来歴 遊牧民時代 モンゴル在住時代は遊牧民であり、ウランバートルから400キロ離れた草原でヒツジやヤギなど家畜を飼いながら季節によって移動して生活していた。
  • 学校がある時期は弟と妹と共に自宅のゲルから20キロ離れた学校のある村のゲルで共同生活を送った。
  • でも馬に乗って走ることとか、楽しかった」と母国モンゴルでの少年時代を本人は述懐したことがある。

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Source summary

Wikipedia

逸ノ城 駿(いちのじょう たかし、1993年4月7日 - )は、モンゴル国アルハンガイ県バットツェンゲル村出身で、湊部屋に所属した元大相撲力士。本名は三浦 駿(みうら たかし)。帰化前はアルタンホヤグ・イチンノロブ(モンゴル語キリル文字表記:Алтанхуягийн Ичинноров、ラテン文字転写:Altankhuyagiin Ichinnorow)。身長192.0cm、体重224.0kg。血液型はA型。最高位は東関脇(2018年7月場所、2019年5月場所)。

モンゴル在住時代は遊牧民であり、ウランバートルから400キロ離れた草原でヒツジやヤギなど家畜を飼いながら季節によって移動して生活していた。当時は馬の生乳を毎日2リットル飲んでいた。学校がある時期は弟と妹と共に自宅のゲルから20キロ離れた学校のある村のゲルで共同生活を送った。「ヒツジを狙ったオオカミがやって来たときなど、夜中に起きなければならなかったのが大変だった。でも馬に乗って走ることとか、楽しかった」と母国モンゴルでの少年時代を本人は述懐したことがある。幼少期よりブフ(モンゴル相撲)に親しんでおり、14歳の時にアルハンガイ県大会で優勝した実績を持つ。来日直前の3ヶ月間はウランバートルに住んで柔道もしていたが、2010年に鳥取城北高校相撲部の石浦外喜義監督に才能を見出されて来日し、同高校に相撲留学した。働き手である長男を失うことを恐れ、「相撲に向いているのだろうか」と、一抹の不安を覚えた母の反対を押し切っての留学であった。逸ノ城より一足先に大相撲に入門した照ノ富士は同じ柔道道場に通い、同じ飛行機で来日し高校の寮も同じ部屋という仲だった。尚、その飛行機には水戸龍も乗っていた。

石浦監督はスカウト当時の印象として「相撲留学を希望して集まった子供たちの中にいたのが彼だった。目立たない優しそうな子、というのが第一印象。ただ、傑出した太ももの太さに目を見張った」と後年語った。当時太ももの太さは凄まじかったが、肩や胸の筋肉の張りや締まりはなかったといい、その点は高校の先輩の琴光喜と同様であった。この時期に「イチコ」という愛称で呼ばれ始めた。遊牧民であったため学校にあまり行っていなかったと推測されており、モンゴル語も標準語を話せなかった。日本語の上達には苦労したようであり、石浦監督はしばしば「日本語ができないと、帰らなくちゃならなくなるぞ」と叱ったという。高校では「我慢」を一番学び、遅刻に対して極めて寛大なモンゴルとは感覚が違うことも覚えた。最初は相撲が非常に弱く、女子部員にも惨敗するほどであったことから、石浦監督は「今のままでは勝てないから、もう相撲はやらなくていい。とにかく四股を踏んでおけ」と指導した。逸ノ城はどんな厳しい稽古よりも四股が嫌いであったため石浦監督は無理にでも四股を踏ませ、不調で出稽古できない時にもこれでもかというほど四股を踏ませたら大会で次々とタイトルを取ったと、監督の自著で述懐していた。一方、水戸龍は逸ノ城が引退した際に「入ったばかりのイチコが女子部員にすら勝てなくて、コーチや監督に怒られて泣いていたんです。慰めて元気づけたら次の日にはがらっと変わって、今度は誰にも負けなくなった」と高校時代の逸ノ城について証言していた。2年時・3年時には合計5つのタイトルを獲得したが、高校横綱は逃した。

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2026-06-03
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